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 「沖縄ノート」(大江健三郎著、岩波書店)の発売差し止めを求めていた裁判で、最高裁で原告の主張を退け、発売差し止めをしないという判断が下されました。この裁判は、「沖縄ノート」の中で、赤松嘉次大尉達が沖縄県民に集団自決を命令したという記述はおかしいと赤松大尉の遺族達が、岩波書店及び大江健三郎氏に対して、訴訟していました。作家の曽野綾子氏が、現地取材でそういう事実はない事と大江健三郎氏が沖縄で取材していない事が明らかになりました。だから、岩波書店は大江健三郎氏の許可を取り、「沖縄ノート」を絶版処分にするべきでした。

 刑事裁判は検察側が常識で考えて、被告人が犯罪を犯した事を立証しなければいけませんが、民事裁判は証拠や証言が信用できる原告の方を採用しなければいけません。だから、一般常識で考えて赤松大尉の遺族の勝訴にしなければならなかったはずです。

 それに、「沖縄ノート」がいい加減な内容である事は、「マンスリーWILL」(ワック出版)や「SAPIO」(小学館)で言われていたので、自分が事実関係についてそれ以上の事は書きませんが、問題は「集団自決を命令した」という争点を「軍部が関与したかどうか」にすりかえた裁判所にあります。このすりかえは、刑事裁判の時に行政機関である検察が不利になった時によく使われます。裁判官は、行政機関から給料をもらっているので、不公平な裁判がよくあるのですが、今回の「沖縄ノート」裁判の場合は、法律書をいろいろ出していて世話になっている岩波書店やノーベル文学賞を取った大江健三郎氏の名誉を守りたいという想いがあったのでしょう。

 自分も岩波書店の法律書を結構持っていますし、大江健三郎氏はよくわかりませんけど、かなりの芸術性を持った作家だと思っています。だからといって、いい加減な事実認定をしていいわけがありません。法律家の大場茂馬氏は1915年に「裁判の生命とするところは、民衆のこれに対する信頼にあり、裁判にして民衆の信頼を欠如せんか、これが公平は疑われ、これは権威を罰せられ、その甚だしきは一種の暴虐として民衆に蛇蝎視せられるに至らん。いづくんぞよくこれを持って国を治め民をやすんずるを得んや。」と主張されました。

 意味は、裁判が国民の常識とずれてしまうと、裁判所の信頼もなくなり、そしていつか国民が裁判所に対して反感を持ってしまう、といった事です。大場茂馬氏が100年近く前に語った事が現実に起きています。この「沖縄ノート」裁判は「わが国の刑事裁判はかなり絶望的である」事を見事に示していた様な気がします。

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 ポルトガルから日本の大学院に留学して、そのまま日本で貧乏暮らしをしている女性の話です。話がのんびりと進んでいるので、まったりとした時間を過ごしたいと思っている方におすすめですよ。